1963-02-07 第43回国会 衆議院 オリンピック東京大会準備促進特別委員会 第3号
○竹田参考人 現在、村の管理人を入れるべく計画いたしております宿舎は、もともと米軍宿舎を管理してをつた日本人宿舎でございます。村のための管理人の宿舎として位置が必ずしも適当ということで選定したわけでございませんので、村の管理をする者の宿舎としての適当な場所を見つけますならば、支障はないと考えます。
○竹田参考人 現在、村の管理人を入れるべく計画いたしております宿舎は、もともと米軍宿舎を管理してをつた日本人宿舎でございます。村のための管理人の宿舎として位置が必ずしも適当ということで選定したわけでございませんので、村の管理をする者の宿舎としての適当な場所を見つけますならば、支障はないと考えます。
それから、当時現地側としては、たとえば残つた日本人を部隊として越南側に使つてフランスと抗戦をさせようという思想の幹部もおりました。それから、外国から、たとえばシヤムとかあるいは越南人で革命に参加した幹部なんかでは、そういうことをしてはいかぬ、まつたく個人の自由意思にまかせて、とにかくそういう部隊というものは組織しない方がよろしいというので反対をした幹部もございました。
さらに私どもがさきに願つた、日本人の妻として夫とともに日本に行つておる中国婦人及び中国人の妻で引揚げて日本に行つた日本人にして、日本におりたくない、中国に来たいというなら、中国に帰つて来ていいような措置をとりましようと申しました。さらに、一番最後は、日本におる華僑からの手紙によると、日本政府から圧迫され困難をしておるという模様である。中国にどうしても帰れと言われて困難している者があるとのことだ。
それがないものでありますから、自然向うの当局としてはそれぞれの残つた日本人、あるいは外国人としての日本人ですけれども、それの全部を直接掌握しなければならぬという非常にむずかしいところがある。そこで、紙一重のところで逮捕か逮捕でないかという非常に微妙なところを歩きながらも、その人間の問題を全面的に掌握しなければならぬという必要が出て参る。そういうように今になつて自分で私は考えるわけです。
実はこの生存残留人員表として発表いたしましたのは、昨年帰られた方々について一々聞きまして、自分はこの町におつてこれだけの人を知つておる、あるいはこういう人がおつた、あるいは何人おつた、日本人会をしておつてこういう状態だつたというのを、全然かわつた角度からまとめたのが今の一万有余でございます。従つて、相当おられても、そこから引揚者がなかつた場合には、その地区の状態がわかつておりません。
この問題を解決する際に、内地におりましても戦災その他の影響によりまして同様に権利の保全の手続が不可能であつた日本人の権利をどう救おうかという問題を議論いたしましたが、すでに相当の期間を経過いたしました後におきまして、かような重大な影響を持つ権利をさかのぼつて回復することを認めますことは、一般の善意の実施者に対して非常に大きな迷惑を与えることになりますので、比較考量いたしました結果、これはとりやめとなつたように
○杉原荒太君 この協定に直接関係することじやないのですが、戦争の発生に伴つてごたごたの関係でたとえばニユーヨークなどに行つておつた日本人乃至日本の会社、そういうものの租税に関する懸案の問題もかなりあつて、中には訴訟事件なんかになつておるものもあり、そういうようなものの処理ということが政府間でもこれを取上げて処理する必要があるのじやないか。
ところが第一回に昨年の十二月にソ連から帰つて参りました人、それから本年の三月二十日だと思いますが、ソ連から第二次に帰つて来た人、合計千二百余名の帰還者からいろいろソ連におつた日本人の消息について得た情報は、これ政府のほうでいろいろお調べの結果、相当はつきりした具体的な名前の付いたものがあるのでございます。
それらの人々が日本のこの八千七百万のたくさんの人間と曾てあれほど勇敢に戦つた日本人の勇気と、この大きな工業力を持つておる日本の能力とを非常に過大評価をいたして、将来の極東の安危に対して日本を利用しようという考えを起した場合に、防衛の文字はこれを如何ようにも解釈し、如何ようにも悪く申せば曲解することができるのであるから、その場合に、実力のない日本といたしましては、この条約或いは協定を守るために政府は万全
と言いますのは、私の地点に残つた日本人がおりましたが、残つた人たちも非常に日本に帰りたがつておりまして、私幾度かソ連当局の警察に参りまして、どうして残したのかという質問を発しましたところ、モスクワの指令による名簿に二人の名前が載つてない、それがために残すのだ。併しながらあの方も必ず次には帰れるのだと言つて、今までそういうように親切に吐いた言葉がないような言葉を吐いてくれました。
それからロシアの女性と結婚して残つた日本人の多い地点はカンスクというところで、いわゆるシベリヤ鉄道の沿線でマテリケといつてこれは故郷という意味だそうですが、この地点には非常に女性が多い。男性というものは皆だらしのないためにいろいろな刑を食つて囚人として収容所に収容されてしまう。
この人たちにでき得る限りの手紙を送りまして、その後われわれの帰還後ソ連に残つた日本人の消息、氏名といつたものを知らせていただきたいという希望を持つております。 次に、生死不明の気の毒な人たちに、国際郵便箱の百一の一号を利用しまして無数の手紙を送つていただきたい。その中には、生存をさえされておりますれば、必ず入手でき得るという確信を持つております。
その後、四九年十月までに、大体三年の刑で来ていた方々が刑を終りまして、マガダン地区に送られて、マガダンの町におつた日本人の浮虜と一緒に日本の国に帰つて行つたということを聞いております。その十月以降五三年十月までに刑を終つた者は、現在まで一般住民として働いておりましたが、全般的に見て、私どものいた地区では、非常に働き方がよくて、みな裕福に暮しておるということが申し上げられると思います。
だがしかし、向うに残つた日本人は決して少い数ではないのですその日本人の引揚げに幾分でもお役に立つていただくならば私の本望とするところであります。今般私たちの引揚げに対して示されました全国民皆々様の御協力と、特に赤十字社当局の御協力はほんとうにありがとうございました。厚く厚く末席を通じてお礼を申し上げます。 ナホトカで日本の船に乗りまして以来、今まで涙ばかりの時間が続いておりました。
日米安全保障条約は相互が相互の防衛についてのいろいろな義務なりまたは援助なりを規定したものでありまするが、しかしこれは平和時においてアメリカの第二次水爆の実験という事態が、しかも禁止区域外でたまたま漁撈に従事をしておつた日本人漁夫と日本漁船に大きな被害を与え、しかもそのことは日本の国民が海の魚に蛋白脂肪等の給源を仰いでおり、国民栄養上も大きな不安と恐怖をかもしておるという事実について、これは日米安全保障条約
そういつた場合を考えまして、まあ外国でやる場合にはこの銀行の性質からいつても、外国へ行つた日本人その他の者はこういう銀行に資金的に頼つて来る場合もあろうから、必ずしも対外取引に関連する業務でなくてもそういう信用供与は認めるようにしようじやないか、こういう意味で特にしぼつてはございません。まあ併し実質的にはそう大きな問題ではございません。
私は市井人として生活しておつたのでそういうことでありまして、機関に勤務をしておつた日本人あたりになりますと、その点は非常にルーズでありまして、また警察の方でも大目に見てくれますので、そういう立場におられた方々の感じは、むろんわれわれとはよほど違うのであります。
裁判は開放裁判ですから、地方の人で残つた日本人、豊原の人も来ておりました。安東の人も来ておりました。その裁判で私ははつきり申しました。私は苦しくても助手として働き産婆として働いているのです、病人が来て苦しんでいるものですから、医師が来ずとも傷の手当をして一時の苦しみを除かしてやつて、そうして医師が来てからちやんと手当をしていただく、それが私の務めと思つておりました、こう申しました。
ですから、三十六年前に日本の領土になつた、日本人になつたということで、国籍を移したり、そういうような手続は全然してないわけなんですね、名前を皆変えてしまつておるわけなんですね、それを戦後もずつとそのまま続けて本人承諾しておる場合には、日本人と見られることもあるわけですね。
それはそこにおつた日本人のマネージャーの尾崎という人に鹿地という人がおつたということを話したのです。そうするとその人は元ジャーナリストであつたらしくて、これは鹿地だなということを言つて、そのときにまた尾崎さんが鹿地という人はどういう経歴の人かということを説明してくれたし、そこではつきりそれが鹿地さんであるということを知り、またそれ以後鹿地さんと話したときにはつきり知りました。
併し今申したように、うつかり出して、そうして奨励して出した結果が、行つた日本人が却つて外国で苦しみをするというようなこともないとも限りませんから、個人々々で出かける場合は別でありますが、政府としてかかる場合には、相当調査の上でないと、却つて出かけた人の迷惑をかけないとも限りませんから、調査はいたしております。併しこの方向にという決定はいたしておりません。
第七章の第六十條以下、つまり手続をもつて旅券を持つて出て行つた日本人が帰つて来る場合の措置しかきめられておらないのであります。
そこで満州等に当時在留いたしておつた日本人は、戦争のために帰れぬというような形になつたのであります。ところが平和が克復するようになつた。しかし、今日の特別な事情において、いわゆる全面講和というものができなくて、ソ連との間には、今日なお平和というものが成立していない。また中国は、御承知のように、国民政府は台湾にひつ込んでしまつて、その大部分は中共の権力下にあるのであります。
主として満州におつた日本人、それから中共地区におつた日本人、これらの人は、もちろん軍人、軍属と違つて、国家の権力による関係であの地へやられたものではないのであります。しかし、戦争によつて帰還することができずにおるということは事実であつて、この点は政府でもお認めになつておられると思うのであります。